今日は、京都市街地のウオークでした。
主目的は二つで、ひとつはまだ1月なのに既にサクラの花が満開の木があるそうなので、その花を見ること。そしてもうひとつは妖怪ストリートをゆっくりとあるくこと。
数日前に引いた風邪がまだ完治せず咳が残っているので、無理せずの〜んびりと歩きました。

本日のウオーキング歩数、36,866歩。

2007年1月28日(日)



JRで京都駅へ。
ちょうど12時になるところだったので、駅ビル地下の「火の鳥 水 時計」前へ急行。
幸い間に合って、水琴窟の音色を聴くことができました。



音色にあわせて照明が刻々と変化。



きれい!(#^.^#)



ついでなので、京都駅ビルにある入場フリーの「手塚治虫ワールド」の入ることにします。



懐かしいキャラクターが勢ぞろい。



ケーキの形をした飾り。



アトム、そしてリボンの騎士。



スタジオショップ。



京都駅舎を後にして輪形地蔵尊前通過。



北野天満宮の前身とされる文子(あやこ)天満宮。



境内へ。



文子像。



文子像の説明。



文子天満宮を後に。
長講堂横通過。



市比賣(いちひめ)神社へ。



境内に湧く名水「天之真名井」(あめのまない)。
持ち帰り用の蛇口が取り付けてあります。



これもおそらく天之真名井。



「天之真名井」の上に並べられた「姫みくじ」。
「姫だるま」と呼ばれたりもします。
もともとは運を占うおみくじの一つだっそうですが、いつの間にか願い事を書いて「天之真名井」の上に置く人達が増えてきたそうです。
一体600円也。



北上し、四条通からは雑踏を避けるため新京極通りのひとつ東側の通りを北進。
都心とは思えない風景が続きます。



三条通から少しだけ西進。
弁慶石着。



幼少の頃、三条京極(弁慶石のある付近)に住んでいた弁慶がこの石を好んだとされます。
弁慶の死後、彼が義経をかばって最期をとげた奥州高館(今の岩手県平泉町)にこの石は移されましたが、ある時石が動き声をだして、「三条京極に往かむ(行きたい)」と言い、高館の地に熱病が蔓延したため、弁慶の祟りと恐れた土地の人により、再度弁慶の生まれ故郷である三条京極に移されたという伝承がある石がこの弁慶石。
別の説によると、この石は元々鞍馬口にあり、弁慶が腰掛けに使っていたが洪水によってここまで流されてきたともされます。
現在の場所には、昭和に入ってから移されました。



弁慶石の説明。



矢田寺へ。
この矢田寺は別名「地獄地蔵」と言います。
その昔、両親と共に幸せに暮らしていた青年の父親が亡くなり、代わりに意地悪で乱暴・残虐な継父がやって来ました。
継父は残虐な仕打ちで青年を苛め抜きますが、耐え切れなくなった青年は継父を討つことを計画。
ところが、継父を討ったと思っていたら何とそれは継父ではなく、あの優しかった母親だったのです。
悲嘆にくれた青年は、母親の後を追うように他界します。
その青年が地獄に落ちようとするまさにその寸前に、この地蔵様が現れ青年を救い出します。
救われた青年は数日後に蘇ったとされています。



お参りします。



人々から深く信仰されていることがよく分かるきれいな境内。



矢田寺を後にして、本能寺に少しだけ参拝。



「サクラの花が満開」との情報を得ていた御池中学へ。
中学の西側、御池通りに面した場所に確かにサクラの花が満開に近い状態で咲いていました!!



きれい!
それにしても、梅がまだ咲かない時期にサクラの花が満開とは。



素晴らしい。



正式名称ではなさそうですが、「御池桜」と呼ばれているようです。



花より団子・・・・。
桜の木の下で皆さん方、まだ昼を少し過ぎた時間なのに、そして寒風吹きすさぶ中なのに屋外でビールをガバガバ飲んでますがな。
ええのお。(;一_一)



六角堂へ。
烏丸通から見た六角堂。
これってガラスに六角堂が映っているわけではないんです。
烏丸通から六角堂が見えるように配慮されているのです。(#^.^#)



展望エレベーターに乗り六角堂を上から見ます
間違いなく六角堂は六角形。
この六角堂を上から見ようと思えば、3台あるエレベーターのうち北側の1台しかない展望エレベーターは乗る必要があります。(搭乗フリー)
1階乗り場で上の階に行く行くボタンを押しても展望仕様になっていないエレベーターばかりやって来て、なかなか展望エレベーターに乗ることができませんでした。



展望エレベーターから下りた後、境内を周ります。
六角堂には素敵なお地蔵さまがあります。




ずらりと並んだ石地蔵。



「わらべ地蔵」です。



境内にある「へそ石」。



不思議な話が伝わる「へそ石」の説明。



本堂へお参り。



こんなものがありました。



ズーム!



六角堂を後に。



烏丸丸太町着。
ここには高野悦子さんがよく寄っていた「アオキ書店跡」の建物があります。



ズーム。
「アオキ書店ビル」と読み取れます。



時刻はもう午後2時。
こんなお店があったので、ここで昼食を摂ることに。



いい雰囲気の店内。



食券を買う方式ですが別にセルフではありません。
ご飯は大・中・小を選べるので大盛りを注文。
おかずはこんな豪華なもので熱々。
見えていませんが卵の下にはハンバーグが隠れています。
これにスープか味噌汁がついて750円!



牛負けた・・・、基!うまかった。(^_^;)
食事を終えて丸太町通りを更に西進。
「笑うセールスマン」に出てくるバー「鷹の巣」みたいなお店前通過。



高野悦子さんが生涯を終えた現場着。
しばし黙祷します。



何だか心が落ち着かないので、近くにあった小さな社に参拝することに。



紙屋川を越えます。



西大路通りを北上し、ここで右折。



大将軍商店街へ向かいます。



不思議な話が伝わる鍬形地蔵尊にお参り。
昔々、この辺りで深刻な水不足が起きて水争いが勃発。
乱暴でみんなから嫌われ者だった男が、紙屋川の水をみんな自分の田んぼに入れてしまったのですが、何をしでかすか分からない男が怖くて誰もが黙っていいるしかありませんでした。
その頃、見知らぬお坊さんをこの辺りで見かけるようになりました。
見知らぬお坊さんが現れて数日後、そのお坊さんは水を独り占めしている乱暴な農民に「水を他の人にも分けてあげたらいいのに。」と声をかけました。
すると乱暴者は立腹し、「やかましい!」と言って手に持っていた鍬でお坊様を力いっぱい殴りつけました。
腕っ節の強い男に鍬で殴られたお坊様は、頭と顔から血がダラダラと流れ出る深い傷を負ったにもかかわらず、「分からぬのですか。かわいそうな人ですね。」と言って、まるで怪我などしていないようなしっかりとした足取りでその場を立ち去りました。
不思議に思った乱暴者が、手に血だらけの鍬を握ったままお坊様の後をそっと追いかけていくと、お坊様の姿はこの地蔵堂の中にすっと消えました。
地蔵堂にズカズカと踏み込んだ男は息を呑みました。
目の前のお地蔵様の顔と頭から、ダラダラと赤い血が流れているではありませんか。
「お、お許しください。」と叫んで、男はその場にひれ伏しました。
それ以来、男は改心しました。
そんなことがあってからこの辺りでは、どれだけ日照りが続いても誰一人 紙屋川の水を独占することはなくなりました。いくら日照りが続いてもみんなで仲良く水を分け合ったとか・・・・・・。
それ以来、ここ地蔵堂のお地蔵様は「鍬形地蔵」と呼ばれるようになりました。
昔々、私達が生まれるより、もっともっと昔、はるかに遠い昔のお話です・・・・・・。



大将軍八神社へ。



参拝します。



大将軍八神社の説明。



大将軍商店街は一条通に面しています。
一条通は「妖怪通り」ということで、各お店にはユニークな「妖怪」が置かれています。



以下、その妖怪たちをご覧ください。



ゴミ箱です。






「ようこそ 妖怪ストリートへ」の文字。



妖怪なのか妖怪でないのか・・・・!?





















妖怪ストリートを歩き終え北野天満宮境内へ。



大きな駒犬がお出迎え。



まずは観音寺へ。
観音寺境内には「土蜘蛛」の灯籠があります。



「土蜘蛛灯籠」の説明。
土蜘蛛が仮に先住民俗だったとしたら、あるいは自分達の生活地ばかりか生活も将来も何もかも奪ってしまう大和朝廷の勢力に対して、力ははるかに及ばないものの自分達の全存在を堵して先住民族が捨て身の戦いを朝廷軍に挑んだのかもしれません。
この「土蜘蛛」に関連する石碑は、上品(じょうほん)蓮台寺にも存在します。
先住民の捨て身のゲリラ戦に、朝廷軍はあるいは悩まされていたのかも。



菅公って言うのは、おそらく菅原道真のことでしょうね。
すると、土蜘蛛灯籠が置かれている同じ敷地に道真のお母さんが永眠しているようです。
土蜘蛛の灯籠と、そしてこの碑に そっと手を合わせます。



北野天満宮境内へ。
牛さんが。



梅の花がもう咲いています!



まだ1月なのに、桜の花とそしてここで梅の花を見ることになりました。



まだほんの一部ですが、花が5割程度咲いているように見える木もありました。。



そうかと思えばこんな蕾も。



紅梅。



渡邊綱が寄進した石灯籠。
一条戻り橋の鬼を退治しようとした綱は、鬼に空中高く持ち上げられます。
鬼の腕を斬った綱は、ここ北野天満宮の建物の上に落下しますが、奇跡的に助かります。
そのことを感謝して、渡邊綱はここ北野天満宮にこの灯籠を寄進したのです。
ちなみに・・・・・。
腕を斬りおとされた鬼は愛宕の方へ飛び去ります。
「愛宕」というのは今の化野(あだしの)付近だと考えられます。



境内の大黒天。
これまた面白い話しが伝わっています。
本殿門手前にあるこの大黒天の灯篭。
大黒様の鼻の穴にうまく乗せた小石を財布に入れておくと、お金に困らないとされています。
そのおかげで、この大黒天様の鼻の穴といったら。(@_@;)
二つの鼻の穴がつながってしまうほどに。



いつ行っても、大黒天の下にはこうして小石が転がっています。



北野天満宮境内の御土居。



御土居の説明。



御土居の図板。
京都の町は秀吉が築いた御土居により、このような閉鎖都市になっていました。
土塁の外側にある東側の鴨川・西側の紙屋川が堀の役割を果たし、御土居の外側は「洛中」内側は「洛中」と呼ばれていました。
土塁の上には竹が植えられていましたが、その竹の伐採は秀吉により堅く禁止されていました。
7つあった洛中と洛外をの出入り口は「京の七口」よ呼ばれ、その名前は今でも「鞍馬口」などの地名として残っています。



境内を北上。
地主(じぬし)神社前通過。



北野天満宮境内から出て道路を渡ります。
御土居からの出土物が道路脇の祠に収められています。



当時のままの姿で残る御土居。



この石仏も、おそらく恩土居からの出土物。



東進し、千本釈迦堂着。



千本釈迦堂へお参りします。
ここ千本釈迦堂は、多数の建物が被害を免れなかった応仁の変の戦乱時にも、護衛のため多数の武士が配置され焼失をまぬがれました。



境内のおかめ像。
この像は悲しい話が元になって造られました。
本堂の建築の際、大工の棟梁が信徒から寄進された貴重な親柱の四本のうちの一本を、短く切りすぎてしまいます。
途方に暮れる棟梁に、妻のおかめ「切ってしまった柱は元には戻りません。柱を全て短く切ればいいのでしょうか。」 とアドバイス。
その通りにした結果、素晴らしいと評価される本堂が完成。
しかし、おかめは「妻に助けてもらって本堂を完成させたと人々から言われるのは恥。私も絶対に言わないつもりだけれど、いつ口を滑らしてしまうか分からない」と考えて悩んだ挙句自害してしまいます。



おかめの話は有名な話。
しかしその話とは別に、このおかめ像の顔にはいくつもの意味があるのです。
おかめ像の顔をよくよく見てください。
何か気付きませんか?
この「おかめ像」の顔の特徴は以下の通りで、そしてその理由もちゃんとあるのです。
鼻がおでこよりずいぶん低い=鼻は妻を表し おでこは夫を表します。妻は決して夫より上にならないで常に低くあるべきだと教えているんだそうです。
両のほっぺたが鼻より高い=先述のように鼻は妻を表します。ほっぺたは両親を表しており、妻は両親より高くてはいけないと教えているとか。
口が小さい=お喋りでなくことばは控えめにすることが夫のためになる。
封建時代でない今そんなことを聞くとあまりにもそぐわない話だと思いますが、「そんなこともあるんだな」と知っていてこのおかめ像の顔を見るのと何も知らずに見るのとでは全く違う気がします。



境内にはこんな石像も。



千本釈迦堂を後にして、千本閻魔堂(引接寺)へ。
閻魔大王に仕えたとされる小野篁(おのたかむら)を開祖とする寺です。



お参りした後、境内を周ります。



小野篁を開祖とすることから、閻魔大王をご本尊としている珍しいお寺です。



千本閻魔堂を後にして、妙蓮寺へ。



お参りします。



驚きました。
ここ妙蓮寺でも、桜の花が咲き誇っていました!



御会式桜だそうです。
御池桜とはまた違う種類のようですが、この時期に咲く桜の花があるなんてことは、今年になって初めて知りました。



堀川通りに至り南進。
陽がかなり傾いてきました。



清明神社着。
旧・一条戻り橋が境内には保存されています。



橋の横に控える式神の像。
2003年にライオンズクラブから奉納されたものです。



一条戻り橋の説明。



かつて名水が湧いていた晴明井。



晴明井の説明。



拝殿の提灯を初め、境内にあちこちに五芒星が。



厄除桃。
厄をこの桃に撫でつけることができるそうです。



厄除桃の説明



晴明にまつわる多くの不思議な話が、境内で絵物語として展示してあます。



以下、その不思議な話をどうぞお楽しみください。





















渡邊綱の話。
この渡邊綱は大坂の出身。
大坂のOMMビルの近くにの永田屋昆布本店の前に、八軒家船着場跡碑があります。
その辺りは平安時代には渡辺ノ津と呼ばれていました。
渡辺とは「向かい側に渡る渡し
場」という意味だったとか
一条戻り橋の鬼を退治した渡辺綱は、その地の出身だそうです。

以下の「東海道57次ウオーク」(未完)にそのことも触れています。
※渡邊綱の生家付近をウオークで通過した際のレポはここ



晴明神社を後にすることに。
さて!京都駅まで歩こうっと。



現在の一条戻り橋。
「死者が蘇る」とされる橋で、戦時中は多くの兵隊がこの橋を渡ってから出征して行きました。
今でも「「戻ってきてはいけない」というので、結婚式の花嫁が乗った車は決してこの橋を渡りません。



一条戻り橋の説明。



堀川第一橋横通過。



堀川沿いで日没を迎えました。
西側にずっと建物が途切れずに続いているので、残念ながら日没時の美しい夕陽を見ることはできないようです。



ここは私達夫婦が結婚式を挙げた場所。(#^.^#)



よく観察していると、堀川通りには結構多くの石碑があります。



石碑の説明。



鈴成り輪・・・・・。
自由に廻してもいいそうです。



早速廻しました。



高野悦子さんが最後の夜までバイトをしていたホテル前通過。



福井藩邸がこの辺りにあったようです。



福井藩邸の説明。



二条城の向こう側の空を、残照が美しいオレンジ色に染めます。



残照がそろそろ終わります。
間もなく都大路が夜の帳(とばり)に包まれる時間。



歩いていて驚きました。
名水巡りツアーの際に見つけられなかった名水「醒ヶ井」の場所を発見!



和菓子屋さんの横に湧くこの名水は、お店の方に声をかけると自由に利用できるということが説明に書いてありました。



京都駅着。



駅ホームへ。
京都駅を起点に正午に行動を開始しました。
ということは、行動時間は6時間だったってことになります。
歩行距離は約25km。
時速に換算すると4kmになり、予定通りの〜んびりと歩けましたことになります。





まだまだ京都のことを私は知らないんだなって痛感。
全国から観光客が訪れる京都。
そんな京都を 京都に住む私達がとことん楽しまないと勿体ないなって思います。


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