今日は、御土居(おどい)の全線を詳細に追うウオークをしました。
以前に一度モスラ号で史跡に指定されている御土居を全部周りましたが、南の部分が不明でした。
今回は全線の詳細な情報を持って周りましたので、バッチリ!
ただ、自宅を出た時間が遅かったので実質的に行動できたのは半日。
東寺を起点に歩き始め、鷹峰で陽がかげりました。
鷹峰から東進して加茂川に至り、更に京阪の出町柳駅まで歩いてから帰路につきました。
本日のウオーキング歩数、44,274歩。
2007年2月4日(日)
JR奈良線で京都駅着。
時刻はもう正午前なので、「たかばしの第一旭」に昼食のために向かいます。
京都駅ビルと空がとってもきれい!
まだ12時になっていないのに、第一旭は長蛇の列。
仕方がないので諦めてUターン。
再度京都駅の下をくぐります。
御土居を詳細に追うウオークの起点は東寺と決めています。
東寺を目指す途中でこんなおもしろい物を見つけました。
人が座っているのでよけようと思いよく見ると人形でした。
人が座っていると思って近づいたら実物大の人形だったので、何だかドキッとしました。
東寺着。
御土居の南西近くにあたるここから御土居跡を追う探索を開始。
東寺境内では市が開かれていました。
九条通りから東を望む。
かつて御土居はこの九条通りの南側車線、つまり写真で見ると右側の車線あたりを直線状に東西(向こう側からこちら側)に延びていました。
東寺前を西進し羅城門跡着。
ここ羅城門跡は御土居の外側ですがちょっと寄り道。
芥川龍之介の小説でも有名な羅城門があった場所は今では児童公園になっています。
羅城門跡の説明。
羅城門跡前にある矢取地蔵尊には羅城門の復元模型が置かれています。
羅城門がいかに立派であったかということは、この模型を見ることで推察できます。
矢取地蔵尊。
昭和初期に地蔵堂の周辺から多数の地蔵が発掘され、現在もこうしてお堂の右側に祀られています
矢取地蔵尊。
地蔵尊には不思議な話が伝わっています。
平安時代、日照りが続いた時があり、草木が枯れ人々は渇き飢えて苦しんでいました。
時の天皇は日照りを憂い、神泉苑で西寺の守敏(しゅびん)と東寺の空海(くうかい)に雨乞いを命じました。(「雨乞い合戦」とも言われている)
雨乞いの結果、空海の祈祷が勝り三日三晩雨が降り続きました。
敗れた守敏は空海を恨み空海を待ち伏せして矢を放ったところ、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け空海は難を逃れます。
その僧は実はお地蔵様で、その地蔵はいつしか矢取地蔵と呼ばれるようになりました。
その地蔵がこれで、今でも背中に矢で受けた傷が残っているとか。
矢取地蔵尊を後にし九条通りを少し東に戻ります。
九条通りのこの場所が、かつて御土居の出入り口であった「口」のひとつである「東寺口」(鳥羽口)があった所。
青丸の部分が現在位置です。
図では四条通の北側では西大路通りの西側に御土居が南北に延びているように描かれていますが、実際には東側。
概念図で精密な図ではないようです。
東寺口があった場所から北進。
街道ウオークのような風景を楽しむことができる場所もあります。
JRの線路につき当たりました。
御土居はまっすぐ北上していたのですが直進は不可能。
仕方なく東に進路を変えて、六孫王神社着。
手水鉢。
境内北の弁天堂内には六孫王誕生水があり、その水は古くから京都名水の一つとされています。
この水は、その名水ではないと思います。
六孫王神社近くにはこんなお堂があります。
お堂の内部にはきれいな水が湧いています。
梅小路公園着。
公園内の梅。
既に花が咲いています。
キレイ。
紅白の梅の花が競演!
紅梅。
梅小路公園内のこの辺りを御土居が北に向かって延びていました。
青丸の部分が現在位置です。
七条通につき当たりました。
御土居は七条通を越えて北に延び、少し先で西に方向を変えます。
空腹ですのでラーメン屋さんに入ります。
事前調査の結果で判断すると、このラーメン屋さんの敷地は御土居跡付近に建っている可能性が濃厚。
和風のラーメンの大盛りを注文。
幅広に削られた鰹節が浮いたあっさりスープがとてもおいしかったです。
ラーメン屋さんの敷地の少し北側辺りで御土居は西に直角に曲がります。
その直角に曲がる東西の部分に「丹波口」がありました。
丹波口の場所の少し西から御土居は再び北に延びます。
七条通の少し北で西に延びる御土居が、京都中央市場建物西側のこの千本通りで再び北に向きを変えていました。
千本通りと言うより「中央市場構内」と思える風景が続きます。
青丸の部分が現在位置です。
千本通りを北進し五条通につき当たりました。
JR「丹波口駅」。
五条通りを越えて千本通りを更に北へ。
京都市街で一番早く春の桜の花が咲く場所のひとつである「光徳公園」に寄ってみました。
桜の花は咲いているかな?!
いくら暖冬とは言えまだ桜の花は咲いていませんでした。
光徳公園を後にしてUターン。
南進し五条通まで再び戻ってきました。
五条通からJRの高架の西側の御土居跡と思われる道に入り北進。
御土居のラインから少し東に外れ、壬生寺に寄ることに。
壬生寺境内へ。
お参りします。
賑わう壬生寺境内。
寄り道した壬生寺から元のコースに復帰。
壬生寺の北緯よりほんの少しだけ北にあたるこの辺りから御土居は再び直角に西に曲がっていました。
西進。
南北の通りにつき当たりました。
御土居は更に西に延び、その少し先で再び北方向に90度曲がります。
西側の御土居があった場所は家屋が密集。
道路がなくて西進できないので、仕方なくこの通りを北上することに。
青丸の部分が現在位置です。
古い地名板には仁丹の宣伝がよく似あう。
四条通へつき当たりました。
ここを西へ進み、北に再び延びていた御土居跡を追います。
西院の高山寺。
淳和天皇が皇居の西側に離宮を造り、それは西院と呼ばれました。
ここ西院の河原 (さいのかわら)は長らく子どもの葬送の地でした。
高山寺の東側の道に進路を取ります。
左側に高山寺を見ながら北進。
御土居はこの通りの少し右側(東側)を南北に続いていました。
京福電鉄の踏切を渡ります。
市五郎稲荷神社着。
ここには史跡に指定されている御土後が残ってします。
今日初めて眼にする御土居跡。
青丸の部分が現在位置です。
御土居は図の位置ではなく、今の西大路通りの東側を南北に通っていました。
市五郎稲荷神社の南側から御土跡を観察。
境内へ。
「史跡御土居」の石碑。
ユニークな顔のキツネ。
御土居の上部。
市五郎稲荷神社を後にして北進。
市五郎稲荷神社の御土居の北の延長線上にこんな社がありました。
どこにも御土居との関連だという説明は見当たりませんが、周囲が平坦なのにこの辺りだけ少し小高くなっています。
御土居と関連がありそうな雰囲気が濃厚。
JR嵯峨嵐山線高架の少し手前のこの付近で、御土居は再び直角に西に曲がります。
御土居があった通りに西に向かい紙屋川を渡ります。
青丸の部分が現在位置です。
図の西側の出っ張りの位置が実際とはかなり異なっているような気がします。
JR円町駅南側で西大路通りを横断。
円町駅の西側付近で御土居は再び直角に北に曲がります。
御土居があった通りに歩くので、円町駅の西側付近で西進から北進に進路を変え丸太町通りを北方向に横断。
北野中学校の西側を北進。
この道路の右側数メートルの北野中学校の敷地内に御土居が南北に伸びていたのです。
青丸の部分が現在位置です。
完全に正確ではないかもしれませんが、私が調べた限りの情報では細い黒線を描き加えた所が御土居のはず。
概念図だからいいのですが、写真との整合性が取れないので実際の位置と思われる部分に黒線を引きました。
北野中学校の北西の端で、再び東に直角に進路を変えます。
この敷地内には御土居の出っ張りの北西端が現存しています。
見たかったのですが残念ながら見ることはかないませんでした。
北野中学校の北側の道を東進し西大路通りを横断。
青丸の部分が現在位置です。
西大路通りを東に越えた東側で御土居は再び北に直角に曲がります。
そのコース通りに歩こうと思うのですが、道が連続しておらず蛇行しながら北上。
紙屋川の西に道がなくなれば仕方なく川を渡り北進。
御土居はこの辺りでは紙屋川の東側でなく西側を、北に向けて伸びていました。
一条通を越えた辺り。
ここで御土居は紙屋川の東に位置を変え、ここから北側の部分では紙屋川を堀として利用していたのです。
紙屋川の東側で北進できなくなったので、東側の大きな石塔があるお寺に入ります。
立派な石塔があるお寺です。
境内に入って見覚えのあるので驚きました。
何とここは北野天満宮の一角にある東向観音寺だったのです。
青丸の部分が現在位置です。
北野天満宮境内を周ります。
北野天満宮の有料ゾーンの梅。
まだわずかしか開花していませんでした。
北野天満宮境内の御土居跡。
良好な状態で保存されています。
境内にある御土居の説明。
立ち入り禁止ゾーンになって詳しくは観察できませんが、北野天満宮西側の御土居跡は北に長く伸びています。
北野神宮に参拝。
五分咲きの梅もありました。
キレイ!
ここに来たら、欠かさずこの写真を写してしまいます。
渡邊綱寄進の石灯籠。
境内のあちこちで梅の花が身頃を迎えていました。
ズーム!
受験シーズンの今、多くの参拝客が。
この梅はもう満開のようです。
北野天満宮を跡にして紙屋川の東側沿いを北進。
少し行くと、かなり大規模な御土居跡が保存されています。
御土居跡からの出土物と思われる石仏。
御土居の東側(写真で見ると右側)は御土居の内側で「洛内」、西側は「洛外」でした。
更に北上。
紫野土居町の御土跡着。
ここも史跡に指定されているのですが、御土居が破壊された後に他の場所の御土居の土を運んできて土盛りされた再現御土居のようです。
再現されたものでも御土居は御土居。
写真を写します。
青丸の部分が現在位置です。
佛教大学西側を通過。
実は私はここの卒業生でもあるのです。
私は大学に籍を9年間も置いていました。
立命館大学に8年、佛教大学に1年です。
番外ですが、他にも某k大学にも1年間籍を置き無事に修了しました。
立名大で聴講生としても1年間籍を置きましたので、大学に籍を置いていた期間全てを合わせると11年間になります。(^_^;)
ただ〜し!親のすねをかじっていたのではなく、自力で稼いだ金で大学生活を送りました。
佛教大学西側にある御土居跡。
ここも結構大規模に御土居跡が残っています。
今は公園です。
史跡御土居の石碑。
当時の雰囲気は十分に伝わってきます。
青丸の部分が現在位置です。
更に北上。
路上に野菜の無人販売所がありました。
御土居餅を売っているお店着。
御土居餅を土産に購入することに。
お店の前には御土居跡が。
御土居跡。
陽がかなり傾いてきたので光線の状態が悪くなりいい写真が撮れませんでした。
お店の南側を東進。
住宅街の坂を下って行くと行き止まりでした。
その代わり、御土居跡を見ることができました。
青丸の部分が現在位置です。
お店の前の道まで戻り少しだけ北進。
この辺りには長坂口がありました。
大宮交通公園内の御土居跡。
公園は午後4時閉園なのでもう園内には入れませんでした。
青丸の部分が現在位置です。
大宮交通公園からひたすら東進し加茂川へ至りました。
夕陽を浴びる比叡山。
加茂川中学校の敷地内。
長坂口から東に伸びていた御土居がここで直角に曲がり南に延びていきます。
その直角に曲がる部分の御土跡がこうして視認することができます。
加茂川中学と道路を挟んだ西側にも、このような御土居が残っています。
石碑。
青丸の部分が現在位置です。
暗くなり、デジカメの電池もなくなりました。
鷹峯からの御土居探索は再度なぞりなおそうと思います。
帰路につきます。
薄暗くなった河川敷を歩き出町柳で加茂川を左岸に渡ります。
暗くなっても美しい青空。
出町柳駅から特急電車に乗車。
宇治駅着。
さて、ここから自宅まで再びウオーク開始!
京都の魅力は尽きません。
今度は鷹峯を起点に御土居の東側の御土居跡を全て探索しようと思います。
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