今日は、御土居の全コースを追うウオークの第2弾。
鷹峯を起点にして加茂川沿いを南下し河原町通り経由で東寺までというコースなので余裕で一日で周れるはずでした。
しかし用事が出来て、結局自宅を出発したのは午後2時を過ぎてから。
仕方がないので鷹峯を起点にするコースは諦め、東寺を起点に御土居の東側部分を探りながら今出川通りまでを探索しました。

本日のウオーキング歩数、21,942歩。

2007年2月11日(日)




京都駅着。
構内で特急の写真を写そうと探してみたんですが、あいにく特急は1本も停まっていませんでした。(;一_一)



京都駅から南下し東寺着。



東寺境内へ。
高床式の宝蔵横通過。



宝蔵の説明。



広大な境内を歩きます。



フェンスを隔てた向こう側は有料ゾーン。



五重の塔。
桓武天皇が都の中に寺を造ることを禁じた時代に、ここ東寺と西寺はなぜか建立を認められました。
かつては、東寺・羅城門(羅生門ではありません)・西寺の3つの建物が、京の都の南端に東西一直線に並んでいました。



九条通りの東側を望む。
御土居はこの九条通りの南側車線(写真で見る右側の車線)を東に延びていました。



御土居の案内図。
正確には青線のように延びていました。
現在位置は黄色い丸の部分。



九条通りを東進し、近鉄京都線の東寺駅の高架下通過。



油小路通り着。
正面のMKビル付近で御土居は、ここで陸橋の歩行者通路部分に北(写真でいうと左側)に向きを変えます。
言葉を変えると、御土居のあった場所の上を陸橋が延びているということになります。



現在位置は黄色い丸の部分。



油小路の北を望む。
右側車線と右側の歩道の辺りを御土居は北に延びていました。



八条通りに着きました。
御土居は写真正面のレンタカー会社の付近をほぼ正確に北に延びますが、ここから北に進む道はありません。
道路は少し西に向きを変えます。
ちなみに。
ここをまっすぐ行けば堀川通り。
JRの線路下をくぐって道が広くなる辺りから油小路が堀川通りに変わるような印象を受けますが、実際はそうではなく油小路通りがこの位置で京都駅の施設に分断されているだけ。



歩行者だけしか通れない油小路通りを北進しJRの線路下を南から北に横断し、東側を望む。
左側に京都駅舎の一部が見えていますが、御土居はこの付近で東(写真では正面の方向)に向きを変えます。



油小路塩小路下るにある道祖神社。
こんな神社があることに今日初めて気がつきました。



縁結びと交通安全のご利益があると言うここ道祖神社。
男性二人が参拝していました。



境内に道祖神の石像があるとか。



参拝。



これが道祖神の石像なのでしょうか・・・・?!
ひよっとして違うかも。



JR京都駅前通過。
御土居探索でここを通るとは・・・・・。
この駅舎の中を、かつては御土居が存在していたのです。



現在位置は黄色い丸の部分。
もろ、京都駅ですがな。(@_@;)



こんなものを発見!
いいですなあ。(#^.^#)
愛妻と来ようかなあ・・・・・。
一ヶ月ほど先に少しだけ臨時収入がある予定なので、その資金で来れないこともないなあ。



更に観察。
益々いいですねえ。(^^♪



猿寺(輪形地蔵尊)着。
このお寺の境内の南側付近を御土居は延びていました。



輪形地蔵尊の門が開いていたので入ろうとすると、境内にいた犬に思いきり吼えられました。
仕方なく退散し東に進むと・・・・・。
この付近のウオークでは、いつも昼食でおいしくいただいているラーメンのお店。
時刻は午後4時という中途半端な時間なのに、行列が!!(@_@;)
せっかくおやつにラーメンを食べようと思っていたのに、時間がもったいないのでそれはできません。
プンプン!
ただ、ここ2軒の京都のラーメン戦争の草分けのような店はいずれも御土居跡に建っている可能性が大。
京都の魅力と不思議を実感する瞬間。



付近をウロウロ。
京都駅至近にこんな場所があることは今日の今日まで全く知りませんでした。



現在位置は黄色い丸の部分。



高倉通りの北側を望む。
京都駅ビル内を東進してきた御土居はここで北に向きを変え、写真正面やや左よりの薄茶色のビルの方向へと北方向に延びていきます。



高倉通りを北進し七条通の少し手前で東側を望む。
建設当初の御土居の位置は枳殻邸の建設に伴い位置変え、この位置から新旧2つの御土居が存在していました。
まずは、枳殻邸ができる際に新しく建設された御土居跡を探ることに。
写真の東方向に進みます。



現在位置は黄色い丸の部分。



七条通に出たので少しだけ西進し、七条河原町交差点で七条通を北へ横断。



高瀬川沿い着。
南から北に新しく建設された御土居は、七条通を横断してここ高瀬川沿いの少し西側を北更に延びていました。
御土居があった場所には家が建っていて歩けないので、ここ高瀬川沿いを北上。



川沿いに咲く花。



水仙も花盛り。



高瀬川は御土居が建設された後にできたので、御土居の東側の堀として利用されていたわけではありません。



高瀬川が北東に流れを変える位置で河原町通りを望む。
御土居はこの付近で河原町通りに至ります。



現在位置は黄色い丸の部分。



上の写真の場所でUターン。
枳殻邸ができる前に存在していた御土居を追います。
七条高倉から北東に延びていた御土居は、正面の枳殻邸の中にありました。



枳殻邸内の卯月池の島。
これは枳殻邸内に今も残る御土居跡です。(06年12月9日撮影)



現在位置は黄色い丸の部分。
御土居はここから北北東に方向を変え枳殻邸内を北北東に延びます。



枳殻邸の北東角。
御土居はここに達し更に河原町通りを進み、新しくできた御土居が河原町通りと合流する部分まで延びていました。



現在位置は黄色い丸の部分。



新旧の御土居はこの辺りで1本になります。



新旧の2本でなく1本になった御土居は合流地点で更に東に向きを変え再び高瀬川沿いへ。



かつて五条口(伏見口)があった五条通着。
五条通を北に横断しました。
北東に延びていた御土居がここから真北に向かいます。
木屋町通りを北進。



高瀬川畔の素敵なお店。



風情ある建物が。



料理屋さんなのですが、とってもそうは見えない玄関。
そう言えば、転職前にはここで送別会があっって参加したことがあり、中にも当然入ったはず。
しかし、内部のことはほとんど覚えていません。
ただ、鴨川がとってもよく見えたことだけははっきりと覚えています。



途中で高瀬川は東に向きを変えますが御土居は真北に延びます。
高瀬川の橋を渡り高瀬川とお別れ。



松原通りで河原町に出ます。
御土居はこの辺りで河原町通りを横切り、高辻通りで北北東に進路を変えて延びていきます。



現在位置は黄色い丸の部分。



河原町通りのひとつ西側の道を北北東に進みます。



途中で道が途切れたので、河原町通りへ。
カニが、う、うまそう!(^_^;)



四条河原町着。
京都一の繁華街であるこの付近へ御土居跡を追って来ることになるとは考えてもいませんでした。



四条通を越えて、河原町通りのひとつ西側の小さな路地に入ります。



現在位置は黄色い丸の部分。



大阪串かつだって・・・・。
う、うまそう!



河原町通りと河原町通りのひとつ西側の通りとの間には多くのお寺があります。
御土居はその寺の辺りを今の河原町通りに平行して北方向へ延びていました。



歩いている道には、所々河原町通りへ抜ける道があります。
このお店屋さんの付近から左方向へ御土居は延びていたはず。



ここも同じ。
このお店屋さんの付近から左方向へ御土居は延びていたはず。



河原町通りにひとつ西側の通りでもう北進できなくなったので河原町通りへ向かいます。
途中で古地図屋さんがありましたが、その店先に展示してある地図には御土居がはっきりと描かれていました。



河原町通りへ出て河原町通りを北方向へ。



三条口(粟田口)があった場所通過。



御池通りを北に渡ります。
京都市役所の東側部分のちょうど御土居があった付近には、こんなオブジェが。



地図。
河原町通りの少し西側は今はもう建物が建っていますが、どの辺りに御土居があったかということがこの地図を見ることでとってもしっかりと想像できます。



荒神口着。
ここに御土居の口があったのでここを荒神口だと呼ぶんだいうことが、今日初めて分かりました。



現在位置は黄色い丸の部分。



立命館大学広小路キャンパスがあった場所。



御土居によく似たものがあります。



何やら説明が。



この図を見る限り、上の写真の構造物は御土居跡だと思ってしまいます。
でもあれは御土居跡ではありません。
実際の御土居跡は廬山寺境内にあります。



河原町丸太町着。
そて!帰路に。



現在位置は黄色い丸の部分。



丸太町橋で鴨川を渡ります。



橋上から夜の闇に完全に包まれる直前の鴨川下流を望む。



京阪電車で宇治へ。
宇治駅から再びウオーク態勢に。
う、うまそう!!





御土居。
ついにその全貌をつかみました。
あと1回のウオークで、御土居がかつてあった場所を完全に周りきることができます。


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