今日は、「第2次・京都鬼伝説ゆかりの地ウオーク」。
暑かったのと、歩き始めたら「あそこにも行きたい」「ここにも寄りたい」と思って余分に周る場所が増えてしまったため、予定通り周れませんでした。
しかしそれも京都の魅力ゆえ。
別に慌てて周る必要はありません。

本日のウオーキング歩数、32,866歩。

2007年9月1日(土)




JRで京都駅へ。
八条口から出て昼食を摂るために塩小路高倉を目指します。
到着した貨物列車の向こうには京都駅ビルの姿が。



鴨川沿いへ。
川の中の水草が目につきます。
高温と少雨で水の富栄養化ゆえかと思われます。



七条通を東進。
いい雰囲気のお店前通過。



大仏前交番の交差点で七条通から離れ北上。
耳塚公園着。



秀吉の朝鮮侵略の際の供養塔である耳塚は、御土居(おどい)等と共に今も京都に残る秀吉の遺構のひとつ。



豊国神社へ。



朝鮮で大虐殺を行った秀吉。
日本の歴史の教科書でその暗部に触れる記述は全く見当たりません。
そんなことを考えながら参道を歩みます。



神社の説明。



秀吉恩顧の大名が寄進した灯篭。



豊国神社に隣接する方広寺へ。
方広寺近くには、大仏前交番や大仏前郵便局といった「大仏」という名前のものが多くあります。
その名前は、京都大仏由来。
1586に秀吉により京都の大仏殿方広寺に大仏が建立されました。
その大仏殿の大きさは前面82メートル、側面57メートル、高さは50メートルもありました。
大仏は高さが19メートルもあり、高さが15メートル弱の現在の奈良大仏の高さを大きく上回っていました。
1596の桃山大地震により大仏殿は倒壊し、その後何度も再建されますが相次ぐ火事や落雷などによって焼失し、今は方広寺に本堂と大黒天堂、大鐘楼を残すだけ。
1662年の震災で倒壊した際には大仏を木造にし、旧大仏は溶解して寛永通宝(大仏銭)にしたようです。
1843年に尾張の有志が寄進した木造半身の大仏は、驚くことに1973年まで存在し、京都の大仏としてしたしまれていました。
私の知り合いは方広寺近くに住んでいたのですが、小さい頃に悪いことをしたらその罰として木造大仏の近くに縛られていたそうです。
木造大仏は1973年に焼失しますが、私は長らく京都に住んでいながら焼失前の京都大仏を残念にも見たことはありません。



京都大仏の鐘。
驚くほど大きいこの鐘をどのようにしてここまで運んだのか・・・・。
今時点で最も有力な説は、運んできたのでなくここで鋳造したというもの。



鐘楼の中には京都大仏で使われていたものがいくつも残されています。



この大きさからも京都大仏の規模の大きさが推測できます。



方広寺近くにある大仏跡緑地へ。



京都大仏の説明。



道の両側には様々な建物が。



方広寺を後にして東山五条交差点から北西に100mほど離れた場所にある藤平陶芸へ。
通称「たこ入道」がありました。
高さ1.7m・直径0.8mのこれは、陶器製のロケット燃料精製装置で藤平陶芸の造った2つ目の装置。
最初のものは、三重県四日市市の第二海軍燃料廠に納められました。
当時の登り窯では「たこ入道」が大きすぎて入らなかったので、二つの窯を壊して一つの大きな石炭窯を造って焼いたそうです。
でも、二つ目の「たこ入道」を焼いている間に敗戦に。
迷った挙句、結局陶工達は焼き上げます。
焼いた「たこ入道」は二つだけですが、このロケット燃料精製装置を造る過程では何度も何度も失敗があって、そしてやっと焼くことができるものが開発できたんだそうです。
戦争末期は金属不足のため、補助貨幣(コインのお金)の金属を溶かして兵器にしコインは京都で焼いた陶器製にする計画も具体化し陶器製の貨幣の試作品も京都で製造されました。
金属を使わない陶器製の手榴弾さえも京都で製造されました。
当時は家庭から鍋・釜などの金属類が集められ、同時に愛宕ケーブルの線路などの金属類も軍事用に転用するため撤去され接収されました。



フリーで見せていただける登り窯。
その大きさに驚きます。



交通の要衝である東山五条交差点近くにこんな登り窯があるとは驚き。









藤平陶芸を後にして五条通り(国道1号線)を東進。
左前方に見える一本松不動尊の向こう側の階段を上がると清水寺のフリーゲートに行けるのです。



暑いという感覚にはもう十分に慣れて気にならないのですが、こんな急階段を見るとため息が出ます。



清水寺のフリーゲート着。
ここから入れば入山料の300円(紅葉時期は400円)が不用。
妻と行動を共にしない時には有料ゾーンに入らないと決めている私にとっては、ここはとってもありがたい入り口なのです。



清水寺境内へ。
「まさに京都」と感じさせる風景。



清水の舞台。



境内の地主(じしゅ)神社へ。



地主神社が世界文化遺産に登録されたんですね。
知らなかったので帰宅して調べてみましたが、世界文化遺産の清水寺境内にあるがゆえという感じみたいです。



何度来ても地主神社のカラフルさに驚きます。



占ってもらって「あきまへんわ」という結果になったらどうなるんでしょうね。(^_^;)
で、この石。
縄文時代の遺物なんだそうです。



今日最初の「京都鬼伝説ゆかりの地」。
丑の刻(とき)参りの跡です。



丑の刻参りの説明。



凄くリアルさを感じる絵です。



さほど広くない境内ですが、様々なものがいっぱいあります。



お嬢さん達にどうぞいいご縁がありますように・・・。



様々なご利益がある地主神社。
キンキンキラキラで新しそうですが歴史は古く、日本という国家が形成される前にさかのぼるほど以前に起こりがあるようです。



地主神社を後にして清水寺境内を周ります。



石仏。



音羽の瀧。
境内では東南アジア系の言葉が飛び交っています。
海外からのお客さんがかなり多い清水寺です。



清水の舞台の橋脚。



お参りを終えました。



有料ゾーンの外へ。



仁王門の階段を下ります。



仁王門をくぐろお嬢さん方。
とっても絵になる風景です。(#^.^#)



仁王門を下りた北側にある善光寺前の首振地蔵。
地蔵の首は「可動式」で、この首を願い事のある方向に向けて拝めば、願い事が叶うとされています。



修行僧を横目に見ながら先を急ぎます。



今日二ヶ所目の「京都鬼伝説ゆかりの地」である「毛朱一竹塚」があった場所着。
平清盛が、捕まえた鵺(ぬえ)を埋めた場所です。
鵺退治をきっかけに清盛は大出世。
実はここは観光客にもよく知られた「三年坂」なのです。
足元に鵺が埋まっているという伝説があることを知らずに連日多くの観光客がここを通り過ぎて行きます。



界隈の喧騒が嘘のように思われるゾーンへ。
入場フリーで清潔な手洗いも使えます。



清水寺近くとは思えない雰囲気が何だか不思議です。



ドンドン北上。
商業ペースのお地蔵さんゾーン前通過。



霊山観音。
この観音像は第2次世界大戦の戦没者を弔い世界平和を祈念して建立されました。
高さが24mあり、体内に十二支の守り本尊をまつっています



高台寺。



ここ高台寺は、「幽霊子育て飴」の話で墓地から掘り出された赤ちゃんが成長して高僧になったとされるそのお寺なのです。



高台寺公園。



石塀小路へ。



ひっそりとしています。



東山通りを越え、縁切りで有名な安井金毘羅宮へ。



金毘羅宮境内の縁切り・縁結び石。
高さ1.5m幅3mの巨石が見えないほどお札が貼ってあります。
願い事を書いた上で石を表から裏へくぐり悪縁を切り、次に裏から表へくぐって良縁を結ぶんだそうです。



四条通へ向かいます。



喫茶ソワレ。
懐かしい店が未だに営業しているのは嬉しい限り。



今日三ヶ所目の「京都鬼伝説ゆかりの地」。
鬼殿(おにどの)です。
昔ここに大きな松の木がありました。
その松の木の横を一人の男が馬に乗って矢等の武具を背負って通りかかりました。
武士が松の木近くに来るとにわかに空がかき曇り稲妻が走り強烈な雨が降ってきました。
武士が馬から降りて松の木の下で雨宿りをしていると、その松の木に雷が落ち、男は帰らぬ人となりました。
そんなことがあったからか、その後この地に屋敷が建てられましたが、そこは河原院と並んで「平安京の化け物屋敷」と呼ばれるほど奇怪な現象が頻発したそうです。
よく探せば、民家の敷地の中に「三善清行邸跡」という石碑があるはずなんですが見つけられませんでした。



次の目的地を目指します。
化粧水の石碑が??



昔、ここには清流が流れ井戸もあったようです。
小野小町がその水を利用したゆえ、その水を化粧水と呼ぶようになったとか。



今日四ヶ所目の「京都鬼伝説ゆかりの地」着。
膏薬図子(こうやくのずし)です。
図子というのは辻子とも書き、細い生活道路のことです。




小さな祠は神田神宮。
ここは平将門の首をさらした場所で、ここから江戸まで首が飛んで行ったそうです。
首が飛び去った後ここら一帯には災厄がまき散らされ、困り果てた人々は将門一族を処刑から救ったという空也上人を迎えて神田神宮を造営し怨霊を鎮め祀ったということです。



次の目的地を目指します。
歩いていると、曇華院跡を見つけました。



高倉宮跡の石碑。



趣がある建物。
薬局です。



今日五ヶ所目の「京都鬼伝説ゆかりの地」僧都殿(そうずどの)跡。
その石碑が僧都殿跡を表すのかどうかは不明ですが一応写真を写しました。
昔、この辺りは僧都殿という怪しげな所でした。
近くには左大弁の宰相源扶義の家がありましたが、その左大弁の宰相の舅に讃岐守源是輔という人物がいました。
源扶義の屋敷から見えている僧都殿にはとても高い榎の木があったとか。
黄昏時になると、どこからか赤い単衣がその榎の木の方向に飛んでいって、木の先まで登っていくのでした。
人はそれを見て怖れおののき近寄りませんでした。
でも、讃岐守の家に寝泊りしていた武士が、この単衣が飛んでいくのを見て「自分なら、あの単衣をきっと射落とせる。」と言ったので、これを聞いた者たちが「できるはずがない。」と言い、いい争いになりました。
男は「必ず射よう。」と言って、夕暮れに僧都殿に行って南向きの簀子にそっと上がり待っていたところ、東の竹が少し生えた中から、この赤い単衣が、いつものように飛んできました。
男は矢を射ました。
単衣の真ん中を射抜いたと思ったにもかかわらず単衣は矢を立てたまま同じように木の先に登っていってしまったそうです。
でも、その矢が当たったと思われる場所の下の土を見ると、血が多くこぼれていました。
男は讃岐守の家に戻り、言い争った者達にことの次第を報告。
争っていた者たちはとても恐ろしがり、武士はその夜寝たまま突然息耐えてしまいました。
それを知った人々は「無意味な事をして死んだものだなあ」と呆れ果てたそうです。



帰路につきます。
「幽霊絵馬」の話が伝わる革堂(こうどう)へ寄ってみることに。



革堂の説明。



本堂へお参り。



境内の百体地蔵尊。



七福神。



革堂の石碑。



革堂のすぐ北にある下御霊神社へ。



神社の説明。



境内の名水。
水商売らしき女性が二人水を汲みに来ていました。
女性が話す「痒いなあ。蚊がいっぱいいるわ。」の言葉を聞き、水を少しだけ味わって早々に神社を後にしました。
蚊が人一倍嫌いな私なのです。



丸太町駅からは京阪電車に乗ることに。



丸太町駅で電車に乗って眠り込んでしまいました。
ふと気づいて外を見ると中書島!
大慌てで下りて宇治線の電車に乗り換えます。
無事に宇治駅に到着。



少しだけ平等院どおりを散策することに。





「京都・鬼伝説ゆかりの地」を歩きながらも、それ以外の不思議ないわれが伝わる場所にもいっぱい寄りました。
京都は本当にミステリーな地だなと心から感じます。
それにしても・・・・・。
今日も暑かったぁ。(;一_一)


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