今日は、滋賀県から流れてくる琵琶湖第一疎水を追うウオークを行いました。
コースは、山科~三条~(地下鉄で三条から)山科~浜大津。
東京遷都後に衰退に衰退を重ねた京都は、琵琶湖の水を引くことで活路を見出そうとしました。
明治18年に開始された琵琶湖疎水のプロジェクトは多くの犠牲者を出しながらも5年後に見事に完成し、今に至っています。
先人の偉業に感謝しながらのウオークになりました。

本日のウオーキング歩数、43,070歩。

2007年10月14日(日)



JRで京都駅を経由して山科へ。
改札を出てJRの線路を地下通路で越え東へ。
少し歩くと諸羽神社。
境内へ。



神が宿るとされる岩座(いわくら)。



若くして失明した山科宮は、同じ境遇にある目の不自由な人に琵琶や詩歌を教えていたとされます。
その時に琵琶を引く時に座っていたのがこの琵琶石。



諸羽神社境内から疎水沿いへ。
疎水の諸羽ずい道が見えています。
諸羽ずい道(トンネル)の長さは520mもあります。



疎水沿いを西へ。
可憐なコスモスの花がいっぱい咲いていました。



諸羽神社から疎水沿いに出て疎水沿いを西進。
最初の橋がありました。



橋の近くにある「母子地蔵」。
疎水完成後、疎水に落ちて水死する子どもが多くあったため、そのことに心を痛めた疎水の舟の船頭が地元の人と共に地蔵堂を建てました。
女性が左腕で子どもを抱きかかえ静かに目を伏せる地蔵の表情は、子を慈しむ母親の慈愛の心が溢れています。
地蔵は1903年に志賀町の石工が彫ったとか。
石は、私が先日ウオークで訪れた雄松(近江舞子)の物が使われています。



母子地蔵の説明。



母子地蔵がある岸の対岸にはこのようなものが。
コンクリートに溝がありますが、この溝は舟でここに運ばれて荷揚げされた物が水に落ちないように、荷揚げの際に板をはめて使われていました。



2つ目の橋「安末橋」。
最初の三角橋です。



三角橋は舟の通行に支障がないように岸より1mほど高くなっています。



橋が岸より高いため階段がついています。
その階段部分が三角形に見えるため「三角橋」の名前が着きました。



とっても歩き易い疎水沿いの道。



2つ目の三角橋。
諸羽神社から西側には全部で6つの三角橋が架かっています。



3つ目の三角橋。
安祥寺橋です。



安祥寺へ。
ひっそりたたずむ安祥寺は今は部外者は入れません。
ここ安祥寺は、文徳天皇の母である藤原順子の発願のもと9世紀にできました。
当時は広い寺領を持ち、有名な毘沙門の境内もここ安祥寺の寺領でした。



京都市街地中心部の疎水の幅はさほど広くありませんが、ここ山科の疎水幅は広いところでは水の流れが5mを大きく越えているように思える場所もあります。



第一疎水の流れに泳ぐ鯉。
第一疎水は水力発電の電力を生み出し、その電力で京都の工場は電気を使った生産が容易になりました。
またその電気で路面電車も走り出しました。
明治30年代になると第一疎水の規模では京都の電力需要増大に対応できなくなり飲料水としての利用も増えてきました。
そのため明治41年に第二疎水が着工され、明治45年に完成します。
第二疎水は第一疎水北側に並行して建設され、水道水源のため汚染防止を目的として全線がずい道及び埋め立てのコンクリートトンネルになっています。
第一疎水と第二疎水は蹴上で合流します。



疎水はほとんどの場所がこのようにゆるやかなカーブになっています。
これは地形もありますが、疎水建設当初の目的であった水運で舟をスムースに動かすための工夫です。



疎水からの眺め。
疎水はかなり高い場所に流れています。



4つ目の三角橋。



「イノシシ注意」の張り紙が。



この辺りから新しいコンクリートが使われています。
流れもかなり急になります。



左側は天智天皇山科陵。
疎水が建設された当時、最も心配されたことは堤防の決壊と琵琶湖の異常増水による水害。
琵琶湖は、陸上で大人の背丈に等しい程の強烈な増水になったことも過去にはありました。
琵琶湖の異常増水や疎水堤防の決壊による水害を起こさないよう、疎水建設では十分な安全策が講じられました。
しかし、1930年にこの辺りで疎水の堤防の決壊が起きてしまいました。
疎水の水が流れないように大津側のゲートを閉じ水の逆流を防ぐため蹴上の堰が閉められましたが、大量の水が流れ出て京阪電車の京津線の線路付近で水深が大人の膝ほどにもなったそうです。
堤防決壊の復旧工事は11日後に完成し、以後には疎水の堤防は一度も決壊したことはありません。



天智天皇山科陵付近の水路は、昔の決壊のためなのかこのように結構長い区間このように他の部分よりも強固な構造になっています。



5つめの三角橋。



正嫡橋。
本圀寺に至る橋です。
この橋は三角橋ではありません。



本圀寺に寄ってみることに。
通称「赤門」をくぐります。



赤門の説明。
この橋は「開運橋」なのです!



中門。
黄金色に輝き、写真には写っていませんが屋根には金のシャチホコも。



黄金の仁王像。



本圀寺は、1970年頃に堀川六条からこの地に移転してきました。



九頭龍銭洗弁財天(くずりゅうぜにあらいべんざいてん)。
黄金の鳥居があり、その奥に弁財天が祀られています。



九頭龍銭洗弁財天の龍神 。
この弁財天は、八大龍王の中で最も神通力の強い神様だそうです。
特に金銭・財運をお授けくださる神様ということで、龍神から流れ出る霊水で銭を洗い浄財袋に入れて持っていると 財運がつくとされます




黄金色の大梵鐘。
1593年に豊臣秀吉の姉・日秀尼から寄進されました。
この梵鐘は、高さ240cm・直径が150cmもあります。
よく見ると法号が列記されていますが、その数は約200名余もあります。
その中には秀吉の両親の法号もあります。



大梵鐘の説明。



本圀寺を後にし再び疎水沿いへ。
6つめの三角橋「大岩橋」。



大岩橋を遠くから見ると、こうした橋が「三角橋」と呼ばれるわけが実によく分かります。



疎水沿いを更に西進。



三角橋ではないですが、明治時代に架けられた橋。
これは史跡に指定されている山ノ谷橋で、日本最初のコンクリートアーチ橋。
諸羽神社を起点に疎水沿いを西に歩き、第二トンネルに至るまでに見ることができる最後の橋です。
この橋も史跡に指定されています。



第二ずい道入り口。
全長は124m。
このずい道も史跡に指定されてます。



第二ずい道の入り口上部には、井上馨の「仁似山悦智為水歓」のことばが。
これは「仁は山を似って悦び 智は水と為なるを歓ぶ」と約されるそうです。
約されてもよく分かりませぬが。(T_T)



第二トンネルから先は疎水沿いを歩くことができなくなります。
第二トンネルの所で左側の道へ入り住宅街へ。
住宅街を疎水が伸びる方向目指してテクテク。



第二ずい道西口(出口)着。
レンガ造りです。



疎水第二トンネル出口の上に読み取れる「随山至水源」の文字。



母子地蔵がああった場所と同じようにここ第二トンネル出口付近でも、荷揚げされた物が水に落ちないよう荷揚げの際に板をはめて使われていた構造物があります。



第二トンネル付近の発電設備と思われる装置。
疎水沿いの道はここで行き止まり。
さて、ここからコースをどうしよう・・・・。



橋がありました。
これは日本で最初に造られた鉄筋コンクリート橋で、日の岡第11号橋です。



橋を渡ります。
建設当時は欄干がなく、ちょうど流れ橋のような構造だったようです。
今では新しく手すりが設置されています。



「日本最初の鉄筋コンクリート橋」と刻まれた石碑。
やはり渡った橋が日本最初の鉄筋コンクリート橋でした。



橋の上から第二トンネルの出口を望む。



橋を渡った左側にこんな碑が。
「本邦最初鐵筯混凝土橋」と刻まれています。



「けあげ 南禅寺」と書かれた小さな案内板を発見。
別の案内には「きつい上り下りがあるコースです。」と。
迷わずこの道を行くことに。



強烈な上り坂がお出迎え。)



京都一周トレイルの案内発見!
ということは、記憶にはないものの以前に京都トレイルコースを全線歩破した際にここを通っているはず。



一気に記憶が蘇りました。
ここを通って大文字山へは何度も行っています。



コースの終盤。
石段を下ります。




階段を下りきり日向(ひむかい)大神宮着。
日向大神宮には、伊勢神宮と同じように内宮(ないくう)と外宮(げくう)があります。
下宮。



内宮。



日向大神宮から少し上がった場所には「天の岩戸」があります。
寄ってみることに。



天の岩戸くぐりは開運厄除のご利益が。



入り口へ。



天の岩戸内部。
周辺は完全な無人状態なので、限りなく静かです。



日向大神宮から更に標高を下げます。
写真左側は全線トンネルを通って流れてきた第二疎水の出口。



第一疎水と第二疎水の合流点。
九条山揚水場ポンプ室が見えています。



ゴミの除去装置でしょうか。
大きな機械が。



インクライン(傾斜鉄道)の台車と舟。



琵琶湖疎水殉難碑。
疎水の生みの親である田邊朔郎博士が自費で建立しました。
「一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるはばんこおんにうるおい)」と朔郎筆の文字が刻まれています。
裏面には犠牲者17名の氏名が刻まれています。
手を合わせました。



義経大日如来。
義経が奥州に向かう途中でこの辺りにさしかかった際、平家の武士9人の乗った馬が跳ね上げた泥水が義経にかかりました。
武士は謝罪しなかったため怒った義経は9人を切り捨てましたが、怒りが冷めた後で義経は武士を哀に思い9体の地蔵を建立したと伝わります。
別の説では、義経ではなく哀れんだ村人が建立したともされます。
9体あった地蔵は今はこの1体を残すのみ。
蹴上地蔵が「そのうちの1体だ」ともされますが、実際のところは不明。




インクライン(傾斜鉄道)の台車と舟。
1889年に建設されたインクラインは舟移動の施設としては日本初で、当時の水平距離582mは世界最長だったされています。



疎水公園へ。
山ノ内浄水場の実物大の金属管。



金属管の直径は165cm。
首を少し下にすれば内部を立ったままで通過できます。
管内部から疎水公園を眺めます。



田邊朔郎博士顕彰碑。



疎水の設計図を持って立つ田邊朔郎博士立像。



発電所取水口に架かる鉄の橋を渡ります。



巨大な導水管。



疎水の水関連の施設。



魚釣りを楽しむ親子。



橋を渡り山すそに沿って歩くと、この疎水分線に出ます。
疎水分線に沿って小道が伸びています。



疎水分線に沿って下って行くと、何と!
南禅寺境内にある水路閣の上に出ました。



水路閣の上には、今でもこうして疎水分線の水が流れているのです。



水路閣の下へ。



南禅寺境内には観光客の姿が。



境内のカエデの美しい緑。
紅葉の名所である南禅寺境内では紅葉はまfだ全く始まっていません。



境内の歌碑。



「ねじりまんぽ」へ。
アーチ部分の煉瓦が下の水平な石積みに対して傾けて積んであって煉瓦がゆるやかな螺旋を描いて積んであります。
これは、上部のインクラインの盛土に直交しない形でトンネルを作る必要があったのですが、そうするとトンネルにひずみがかかるのでトンネルの強度を保つために用いられた工法ゆえ。
アーチの天井部分の煉瓦は、インクラインと直交に近くなるような向きで並べられていますので、それに合わせて他の煉瓦も並べられていくと、側面の煉瓦は斜めになっていきます。
ゆえに。
トンネルの内部の煉瓦が全体として螺旋状になってしまったのです。
この「ねじりまんぽ」も田辺朔郎氏の手により造られました。



ねじりまんぽの北側。
「陽気発処」と書かれています。
当時の北垣知事の筆によります。



内部のレンガ。
らせん状になっているのが分かりますか?
「ねじりまんぽ」の名前について。
「ねじり」はそのままで、ねじれているということ。
「まんぽ」とは、西日本では短い地上トンネルを意味しています。
谷崎潤一郎の「細雪」には「まんぼう」の名が出てくるようです。



ねじりまんぽの南側。
「雄観奇想」と読めます。



ねじりまんぽからインクラインの線路跡を目指します。
「殉職者の碑」がありましたので手を合わせます。



インクライン線路跡へ。



インクラインの説明。



インクラインを下りきりました。



「巨大な輝き」像。
疎水の水門を開ける男と、水門から流れ出した輝く水を表現しています。



像の説明。



琵琶湖疎水記念館へ。
改修工事中のため一部しか見ることができませんでした。
記念館で唯一見ることができた実物であるペルトン式水車。



今の舟溜まり。
向こう側は京都市動物園。



平安神宮へ。
巨大鳥居を眺めます。



鳥居はこんなにも大きいのです。
凄い!



京都会館横を流れる疎水。



夷川水力発電所のダム湖着。
この大量の水は琵琶湖疎水を流れてきた水なのです。



夷川水力発電所の機器。



発電を終えてゲートから流れ出る清流。



疎水下流から見るゲート。



夷川水力発電所内部のダム湖の水。
意外にも多くの水草などが浮いていました。



発電所内にある第一疎水竣工式場玉座蹟の石碑。



水力発電所の機器。



放流ゲートを普段とは逆の位置で眺めます。



夷川水力発電所を後にして更に疎水沿いに下り、鴨川畔着。
「四季の歌碑」を眺めます。
源実朝・良経・兵衛・後鳥羽院の4人の歌人が詠んだ鴨川の歌が刻まれています。



疎水の流れの上に架かる田辺小橋。
琵琶湖疎水の生みの親である田辺博士の偉業にちなんで命名された橋なのかもしれません。



琵琶湖疎水は鴨川に突き当たった場所で鴨川に流れ込むわけではありません。
疎水沿いに川端通りを南進します。
その疎水に沿って南進。



川端三条着。
ここから京阪電車の三条駅構内に行くこともできます。
神戸から来た若者が路上演奏中。
とっても迫力がある音が辺りに響き渡っていました。
疎水の流れはここから南進し、伏見で宇治川に流れ込みます。
今日はそこまで行く予定はしていません。



川端三条から京阪電車に乗って帰宅?
いえいえそうではありません。
今日の目的は「琵琶湖第一疎水の琵琶湖から京都までの流れを追う」というもの。
これからがウオークの本番。
三条から地下鉄に乗り、午前中に訪れたウオークの起点である山科の諸羽神社まで再び戻ってきました。



諸羽神社から疎水沿いの道に入り東進開始。
疎水は左側の諸羽山に掘られた諸羽ずい道の中を流れているので疎水の水は見えません。
1969年まで琵琶湖疎水は諸羽山の麓を流れていました。
左側の草むらがその部分です。
1970年に諸羽トンネルが完成すると旧疎水は埋め立てられ、現在は公園として利用されています。



諸羽トンネルを越えると再び疎水に並行して歩きます。
しばらく疎水の流れを見ながら歩いた後、この写真の部分で疎水沿いの遊歩道が終わり、ここから先は一般道を歩くことになります。



住宅街を歩いていると、疎水がだんだん下になっていきます。
住宅街の標高が次第に高くなっていっているのです。



住宅街をドンドン進んでいくと道は行き止まりになってしまいました。(>_<)
少し南進し、琵琶湖に行ける道を探します。



道路番号がある道に出ました。
琵琶湖に行ける道を探しながら西(もと来た山科の方向)に歩いていき、やっと見つけました。
左側にこの「東4号道路」の標識がある場所で左に曲がると琵琶湖に至ります。(西に歩きながら右の道路番号を見てはいけません。左の道路番号を見てください。右と左の道路番号が異なります。)



「東4号道路」の標識で左折して少し行くと、西大津バイパスの下をくぐることになります。



普門寺着。
ここから小関(こぜき)越えになります。



石地蔵の祠を右に見ながら小関越えコースへ。



小関越えの上り坂。
旧東海道の逢坂越えが大関越え」とされていたのに対し、このコースは「小関越え」と呼ばれ、京都と近江を結ぶコースとして盛んに利用されていました。
小関越えに沿って、琵琶湖第一疏水の第一隧道、第一竪坑、几号水準点、それに第二竪坑がありますが、時間がないのでいずれにも寄ることははできませんでした。



小関越えの坂を上りきりました。
登りの途中で自転車でトラブルになっている様子の3人連れに出会いました。



峠にある「喜一堂」。



喜一堂の説明。
こんな内容の説明を読むと、とっても嬉しくなります。
放置されていた石地蔵が見つかってからこの喜一堂が造られたんですね。



下り坂。
自転車なら一気に下れるコースですが、ウオークでは上りと同じように一歩一歩進みます。
自転車でなら一気に下れる道を一歩一歩下るというのもなかなか味があるもの。



右手に小関天満宮の鳥居が見えてきました。
この少し先で左折します。



大津市指定文化財である石造の小関越え道標。



小関越え道標の説明。



小関天満宮の少し先を左折。
程なく長柄神社着。



長柄神社への階段。
有料ゾーンなので入りません。
私は、妻が忙しくしているのに自分だけが自由に自転車で走ったりウオークしたりする時には、有料ゾーンに入ることは原則行わないことに決めているのです。



長柄神社を越えて進んでいくと橋がありました。
その橋の下に、ずっと見えていなかった疎水の流れを再び発見!



第一ずい道入口です。
大津の疎水には水門が設置されていました。
第1トンネル掘削後に琵琶湖で大増水でがあった場合に備え、増水した琵琶湖の水がトンネル経由で京都に流れ込むのを防ぐため造られたトンネルの入り口の開閉式鉄製門扉です。



琵琶湖第一疎水の源流付近の流れ。



琵琶湖第一疎水の起点付近の施設。



第一疎水の文字が。



第一疎水の取水部。
琵琶湖第一疎水の揚水機場です。



琵琶湖川から見る第一疎水の起点。



琵琶湖第一疎水起点の風景。
この風景を見て驚きました。
ヨットが係留された見慣れた場所。
私が琵琶湖を走ったり歩いたりする時にまず最初に「琵琶湖に来たんだ」と思う場所だったからです。



第一疎水の起点を後にして、浜大津港へ。
ヨットハーバー。



浜大津港着。
ビアンカの勇姿を眺めます。



「うみのこ」号のブリッジ。



「ビアンカ」と「うみのこ」のツーショット。



「うみのこ」のブリッジをズーム!



浜大津港を後にしてJR大津駅へ向かいます。
歩く途中で「華階寺のイチョウ」の説明を見つけました。



華階寺のイチョウ。



JR大津駅着。



駅東側にある「山吹地蔵」の説明。



ここJR大津付近は秋岸寺があった場所なのです。




知っているようで実はよく知らない琵琶湖疎水。
今回のウオークで、琵琶湖疎水に益々興味が湧いてきました。
それにしても・・・・・。
第一疎水沿いウオークは最高です。
本当にいい時間を持つことができました。


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